父が緩和ケア病棟に入院しているため、移植が終わりすぐに実家に戻った私。
同じく離れて暮らす姉も実家に戻り、母と3人で久々の実家暮らしをしていました。
エストラーナテープ(貼り薬)とルトラール(飲み薬)は引き続き継続。判定日は移植日の12日後でしたが、父の事情を話し判定日に受診できないことも考え、薬は多めに処方してもらいました。
きっと自宅でなにごともなく判定日を待っていたら、毎日毎日お腹の中のことが気になっていたと思います。
しかしその時の私の頭の中には父がまもなく人生の最後を迎えること、それまでに自分達にできることは何かを考えること、それらが多くを占めていました。
また姉の子供も一緒に里帰りしていたので、毎日子供のフルパワーの遊びに付き合って疲れ切っていたことで、余計なことを考えないで済んだのかもしれません。
移植日から1週間ほど経った頃、父の病院の先生に呼ばれて、「そろそろ覚悟をしてください」と言われました。
父の衰弱具合を見ていつその時が来てもおかしくはないと覚悟していたつもりが、やはりお医者さんの口から聞くとインパクトがありました。
だんだんと父とのコミュニケーションも取りづらくなっていった移植から8日目の夜、私は決意しました。
「明日、妊娠検査薬を試す。」
早速、もともと不妊治療の相談をしていて事情を把握している姉に宣言しました。
もともと判定日まで妊娠検査薬を試す気はありませんでした。(陰性だった時に、それを見るのが辛いと思った)
でももし妊娠していたら、父に伝えられるチャンスは残り少ないかもしれない。
そう思い、思い立ったらすぐということで、翌朝病院に向かう途中に妊娠検査薬を購入し、父の病院のお手洗いで妊娠検査薬を試すことにしました。
いままで何度も妊娠検査薬を試したことがありました。
一度も陽性を見たことがありません。
体外・顕微受精は最後の頼みの綱でした。
父のことがあり覚悟を決めていた私は、病院に着くなりすぐにお手洗いに向かいました。
目的があったことで、ためらいやドキドキする気持ちは少し薄れていたのかもしれません。驚くほどスムーズに手順をこなす自分がいました。
陽性の人は、すぐに判定窓に線が見えるといいます。
尿をかけた後、じっと判定窓を見ていました。
判定窓は白く、いつも見慣れた光景でした。
体外受精まで進んだのに‥そう考える時間がありました。
しかし、徐々に判定線が色づいてきました。
初めて見る光景でした。しばらく判定窓を見つめていました。徐々に判定線が線だと分かるくらいに浮き出てきました。
結果はなんと、陽性でした。